昭和42年07月19日 朝の御理解
御理解 第17節に
「神の綱が切れたと云うが神からは切らぬ 氏子から切るな。」
神の綱が切れたというが神からは切らぬ、氏子から切るなとこういう神様の御神意というか、お心と言う物を良く体しておきませんと、神様の綱を、神様とのいうなら折角の交流と申しましょうかね、神様との継ながりを切ってしまう事になる。又あわてて神様との間の交流を謀るという事は、いわゆる繰り返し繰り返しそういう信心を、どうどう回りの信心というのじゃなかろうかと思う、後で気付いてあっ神様から。
神様との間の綱を自分で切っておるという事に気が付いて、改めて又神様との継ながり頂かなければならないと、その神様の綱をというなら交流しつづけるという事。それはさまざまな、難儀な問題が、お互い御座いますから、そこんところをおかげを頂きたいと思う。ですから、神様に一心にお縋りもする、お願いもさして頂くんで御座いますから、一生懸命お参りもさして頂いて。
お話も頂いて成程とこう感じるところもあって、信心に心を打ち向うて行くので、御座いますけれども、どっこい自分の思う様なおかげになって行かない。そういう時にもう神も仏もあるものかと思うたり、もう神様のつなが切れたと言う様な心の状態になる事が、神の綱が切れる、切れたという事で御座いましょう、そういうところにあの次の御教えの中に、是程信心するのにと言うたらもう信心は停まっておるという。
是程信心するのにと、云う時にゃ様な心が起った時には、もうすでに神の綱は切れた時なんだ。是はまあだ、私の信心が足りぬからだと心を練り修業に、いよいよ一段と精を出さして頂く所からおかげは受けられる。そこんところを、是程信心するのに、という時にはもう信心は停まっておる、是はまあだ、自分の信心が足りぬからだと一段とこう仰る、一段と信心を進めて行けば、そこからおかげが受けられる。
そこからいよいよ神様との密なる交流が始められるのだ、とこう言う訳なんですね、そこん所を皆さんが何時も頂いておられます。私共が一日の内にでも随分危ない、神様との間を遮断するというか、断ち切ってしまう様な状態の時が、色々ありはしないか。先程までは確かに有難かったのに、途端に有難くなくなったと言う様な事ではもういけない、昨夜素晴らしい性能のル―ムク―ラ―のお供えを頂いて。
ある方達が話し合ってどうでもおかげを頂こうというので、あの昨日一日がかりで、あっちこっちその良い物をというので探しに廻られたらしい。夕方私達が下がった時には、もうそれが据え付けてあって、もうそれこそ何と申しましょうかね、この暑いのに秋の季節でした。もうものすごく良く冷えるんです、本当にあの勿体ない事だとこう思います、もう本当に夕べばかりはもう本当に熟睡さして頂きました。
途中で目が覚めたら寒い 再び布団を出してから着せて頂くと言う様にある。ところがその、けども、そういう涼しい中に、こちらへ出席さして頂く準備をさして頂いて、再び外をこう開けさして頂いた途端です、もうそれこそあのぅ、お風呂の中に入った様、もうあまりに涼しい中にありましたですからね、あのデパ―トなんかに参りましてから。冷房が効いておる所に参りましたら。
外へ出るとあんな却ってもうカ―ッとするでしょ、私はあの出た途端にそう思ったんですけども、はあ、是だけのおかげを受けておったと云う事を思いましたね、そしてその次に思わして頂いたのは、はあこういう時だなあ、神の綱が切れるのは、折角のおかげを頂き過ぎておる。ですから自分の身にちょっと嫌な思いをしたら、ちょっと難儀な事があると、それを喜びで持ち続けきらん。
保持しきらん私はそう言う様な場合でも、矢張り神の綱が切れるという事が云えるのではなかろうかとこう思うね、所が中々その私共の場合そういう時にですね、ル―ムク―ラ―も良かばってんかですのや。もうほんなもう後がそう言う様な人達があのル―ムク―ラ―の冷房病とかですね、神経痛が起ったりするのじゃなかろうかと、私しゃ思うああいう結構なあのおかげを頂いておるのに、そういう風にそのケチを付ける。
出た途端にです、とにかくそのそういう云うならば信心の世界から、信心の無い世界に一歩踏み入れると、本当にそれこそ冷房の効いた部屋から、冷房の無い暑い所へ出て行く様にあるんですけれども。そういう姿の中に、そういう状態の中に、本当に自分がおかげを受けておると云う事が、いよいよ深刻に分からして貰う、本当に分からして貰うという、そういう私はおかげを頂かなければ私はね。
暑い所に出た途端に不平が起り、兎に角信心の無い人達ばかりは、と言う様な心の状態であっては私は、神の綱が切れると言った様な事にまで、成り兼ねないとこう思う。そこで教祖の神様は、「この方の道は喜んで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん」と仰る。そう言う様な私は努力、又は精進が喜びのおかげというか、神様とのいよいよ交流を深めて行く事である、とこう思う、所が実際問題としてです。
私共がそう言う様な場合に、矢張り暑いのは暑いと思うわけである、けれども唯今そう言う様にその、この方の道は、喜びで開けた道だからと、こう仰る様にその喜びでは苦労はさせんとおっしゃるのですから、そういう例えば不足が出そうにある様な時にでもですね。まあ云うなら嘘にでも、おかげを頂きまして有難う御座います、とこう何回か、繰り返しておる内にですね、
こういうおかげを頂いておったんだと云う事が分かって来るんです。いわゆる神経痛にならんで済むんであり、冷房病にならないで済む事なので御座います、ですからそこん所はです、云うならばその喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰るその事をです、本当に思い込んでおらなければならんのだ。又そうであらなければならんと云う事を、一生懸命思うておかなければいけないと思うです。
とても喜びでは受けられない、所が反対の事だと云う様な場合でもです、さ、そこん所を嘘にでも良いから、金光様 金光様 金光様と、こう云うのである、良く云われることです、腹が立って仕方がない。それをその腹が立つ腹立ち紛れにそれを、腹立ちを外に出す時に、神の綱が切れるのですからね、そういう時に又腹を立てましてもです、難儀な思いを致しましてもです。
いわゆる金光様、金光様、金光様 とその腹立ち出すまいとする努力、そういう精進がです、金光様 金光様と云うておる間に、はあぁ云わんでおって良かったという。そのおかげがですね、いわゆる綿々としておかげが継ながって行く、信心さして頂く者はそういう精進が必要である。是が本当だと云う事を思い込まして頂いたら、いや、それを思い込まして頂かなければいけない。
そうしてみると、私共は日の内に何遍神の綱を切っておるやら分からない、それが気が付きゃまだ良いです、けども気が付かんなり、もう神の綱が切れっ離しである。そこに問題があるのです。御無礼、神の綱が切れたとね。もう腹立ちやら不平不足を云うておる時にゃですね、確かにもう神の綱が切れた時と同じ事ですよですから、はっと気が付かして頂いてもし切れたならです。
御神前にでも額づかせて頂いてからその本気で教えに、自分が取り組んでいなかった事をお詫びさして頂いて、自分の心の中にまた神の綱との継ながりを求めて行くという、精進が必要なんですね。そこから神様との継ながりが、何時も絶えず頂けて行くので御座います。朝一辺だけ神様と継ながっとるばってん、もう後は切れとる、後はあくる朝までは切れる、というなら何にもならんじゃないですか。
段々信心をさして頂く様になり、信心が身にツイて来る様になりますと、そこにですどの様な場合でも考えてみりゃ、おかげという事になって来るのです。どんな場合でもどうしてという時にはもうすでに、神の綱が切れかかっとるこうして御神様が分からして下さろうとしておるんだと、こうして神様がお鍛え下さるんだと、こうして分からして下さるのだと云う、そのこうしてという生き方にならなきゃいけんのです。
どうして私ばかりがこんな難儀しなければならん、どうして私だけにこんな苦しい事が起って来るだろうか、そこにはですね、もう何時まで経っても、矢張り難儀との継ながりと言う物が切れません、今あのどうして、何時までも難儀との継ながりが続くのであろうか、何時までも難儀が難儀と、その、いわば継ながりが切れない、云うた時にはここにおいさみが付きましたですね、良く皆さんに聞こえないくらいですけど。
確かに神様はですね、ここんところを私共の心の切り替えというか、解らして頂く事を、分からして下さろうとしておる事が解ります、お互いが難儀と会いもうその縁を切りたい、綱を切りたい、貧乏神ともいわゆるもう絶交したい所がです、お互いが貧乏神との綱を切らない様な心の状態なんです、いわばもう難儀様ウッフッフ難儀様じゃない。難儀ですね本当にその難儀と思える事でも、様が付く様ならまだ良いです。
難儀様として、それを有難く頂いて行こうとするなら良いけれども、その難儀と何時までも絶好が出来ない、いわゆるいよいよ難儀と、密接な関係を作って行く様な心の状態、それが不平不足であり、腹立ちであり、恨んだり、憎んだりと云う様な心のある間は、何時まで経っても難儀との絶交は出来ません。ね、お互いがその難儀から本当に解放されたいね。貧乏神と絶交したいと思うなら。
それこそ嫌やぁな問題、嫌やぁな病気ね、そういう嫌な病気とか、嫌な難儀な問題と絶交したいなら、どうぞ一つ心の状態を変えなきゃいけませんね、所がそのお互いが幸せな方の綱、いわゆる神様との方の綱を切ろうとする様な、いや切る様な心の状態であったり、あり方であったりする所に折角信心をしておっても、継ながったかと思うとると、もう切れとると云う事になるのですから、ね。
一つの教えと言う物を皆さんが心の底に本当に頂き込んで、思い込んでそれを頂き続けなければいけない、この方の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせんと、又は喜び喜んで開けた道じゃからとも仰る、喜び喜んで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせん、所が今も申します様に、喜べない様な事もあるんだけれどもね。そういう時にいわゆる金光様、金光様、金光様とこう金光様をお唱え続けさして貰う所にです。
お取り次を頂いてお願いをさして貰う所にですね、その神様との綱を切らんで済む、おかげを受けられる、そこから絶えず神様との継ながり、と言う物が始められて、その中ににゃ苦い事もありましょう、痛い事もありましょうけれども。そういう時に是ほど信心するのに、もうおかげは頂き切らんばい、と云う様な状態の事に成らない様にです、心掛けさして貰わないけません。
難儀をする時にはまあだ、貧乏神との縁を切りきってない自分、難儀があるならば、難儀といわば絶交しきってない、思い切りの悪いそういう心がです、難儀様と何時までもお付き合いをしなければならない、という事に成って来るのじゃないでしょうか。何時かの御理解に、何時も三月春の頃からと、言った様な御理解を頂いた事があるね、もう四六時中、暑い思いもせんで済む。
寒い思いもせんで済む様な、おかげを受けられるのがお道の信心なんです、言うなら暑い時には、冷房装置のある部屋に住まわして頂く様な、おかげが受けられるのが、お道の信心、寒い時には暖房の効いた部屋に、住まわして頂ける様なおかげを頂けれるのが お道の信心なんだ。為に本当に寒い時本当に暑い時、その暑い中に寒い中に御神意を悟らして貰、御神恩の広大さを分からして貰うて。
暑さにも寒さにもお礼が申し上げられる様な状態が、続けられて行く所にです、私次にあるのが寒い思いをせんで済む、暑い思いをせんで済む、おかげが待っておる。とこう思うのですどうぞひとつ、神の綱が切れたというが、神からは切らん氏子から切るなと仰るが、成程氏子私共が切りよる事が分かって参りますですね、私共が神との綱を切ろうとしたりね、切ったりしておるので御座います。
それはどう言う様な場合に切れるのか、どう云う様な場合に、絶縁状態になるのか、そして反対に難儀の、言うならば方の、神様とでも申しましょうかね、貧乏神がおる位じゃけん、難儀の神様も御座るでしょうですから、その難儀の神様と、何時までも絶交しきらない、綱を切りきらない何者かが、心の中にある事を、分からして貰うてそこんところを取り除いて行くという。
そこんところを一番見易う頂けてるのが。ただいま申しました様に喜び喜んで開けた道だからという事なんです。だから喜べんでも様な時でも嘘にでも良いから、喜ばして頂いておる内にです、綱を切らん、切らずに喜び、嘘にでも良いから喜ばせて頂いておる、喜びの表現をしておる内にです、おかげを下さるのですよね、そこんところを四神様は教えておられますね。
五つ有難いと思うたらね、十も有難い様に表現せよと仰る。十も有り難いと思うたら二十も 三十もの有り難さに表現して行けと。そこにはもう六十も七十ものおかげが待っておる。という意味の事をおっしゃっておられます、是なんかも、おかげを頂いて行く人の是はコツです。もう、一つの事を非常に喜ぶ人があります。甲の人はその事を喜んでおるのに、乙の人は喜ばない。
今年のこの、作物の出来はどうでしょうか、見事です。神様のおかげを頂いて見事に出来ました、というて喜んでおるかと思うと、片一方の人は出来るとは出来たばってん安かけんでち、云うごたる風な事になって行く人が、同じ事でもね。だからそういう状態ではですね。例え成程それは作物が良く出来、そのいくら儲かりましてもです。いくら立派なお家に住みましてもです。
難儀様は恐らく絶えないでしょうね。恐らく難儀と言う物は、何時もその人の家に同居してしまうでしょう、一つおかげを頂きまして、その辺の所をスッキリですね、喜びを持って神様との間を、継なぎ抜かせて頂く所に、難儀との絶縁がいわば約束される。だから何時の場合でも有難い、有難いで通せて行けれる稽古をしなきゃいけんと思うですね、いよいよ そこに焦点をおかにゃいけんと思うですね。
どうぞ。